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なんでもかんでも

ニューヨークジャズクラブあれこれ
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     by 藤井郷子

    本場ニューヨークには星の数程ジャズクラブがある、というのは実は本当ではない。 東京の方がはるかに多い。ニューヨークではミュージシャンの数が星の数ほど、とい うのは正しい表現だろう。結果、需要と供給のバランスでミュージシャンの生活は大 変きびしい。きびしいというかほとんど不可能。みんなコンピューターでバイトした り、ペンキぬったり、子供に楽器教えたりしている。当然だがみんな貧乏だ。

    ニューヨークはアメリカの他の都市に比べると家賃が高いし税金も高い。有名ジャズ クラブなんか、アメリカの他の都市に比べたら「本場」なくせに滅茶苦茶高い。ボス トンでは25ドルで飲み物込みで聞けた同じミュージシャンをここでは35〜40ド ル近く払わないと聞けない程だ。家賃が高いからそうなるのか高くてもお客さんが来 るからその値段なのかは分からないが、貧乏人にとっては辛い話しだ。それでも勿論 日本から来る人々にとっては、ここ数年の円高為替も手伝って大変安く感じられる。

    ニューヨークではジャズが安く聞けると、みんな有名ジャズクラブに行く。勿論ジャ ズの本場という肩書きもあり、観光客はその程度の出費を惜しまない。有名ジャズク ラブの客の半数以上は観光客だ。ブルーノートで出演ミュージシャンが日本語で「こ んばんわ」「ありがとう」と挨拶するほど日本人が多い時もしばしばだ。たいていの ジャズクラブではテーブル席の他にバーのカウンター席があり、そちらのほうが安い 場合が多い。勿論安いといっても私にとっては十分高いが、、、バーに座るのはミュ ージシャンか地元の常連客だ。食事ができるクラブも多いので、さながら着飾った人 々の社交場のようになるときもある。
    それではもっと手頃な値段のジャズクラブはないのかというと、ちゃんとそれはそれ である。マイク・スターンがよく出演している55バー、やチャイナタウンより南に ある、ジョン・ゾーンやデイブ・ダグラスがよくでているニッティングファクトリー 、それにジャズクラブではないが週一回とかでライブをやっているカフェが、多くは ないが点在している。私達が足を向けるのは、この手の場所だ。値段も安いし、現在 進行形の音楽が聞ける。ピアノなど置いていないカフェで、友人達がドーネーション ボックス(喜捨箱)を前に置いて演奏している音楽は刺激にもなるし、なにしろ励ま される思いだ。こういう所は、今の私にとっては『学校』そのものだ。

    ジャズクラブの情報は、1年前からマンハッタンでは無料になったビレッジボイスと いう週刊新聞やホットハウスというニューヨークのジャズクラブがたくさんでている 情報紙、または1年程前から発刊されだしたタイムアウトニューヨークで調べられる 。ほとんどのクラブはホームページを持っているのでインターネットでも大丈夫だ。 最近では、ジャズライフ、スイングジャーナル等にも、ニューヨークジャズクラブの スケジュールを載せているようだ。
    ほとんどのクラブは9時と11時のショウなので、店を変えてハシゴをするのも可能 だ。スケジュールを見て、知らないミュージシャンだと、なかなか行く気にはならな いものだが、行ってみることを薦める。日本では名が知られていなくても、バリバリ にいい音楽も聴ける、というのがここのおもしろいところだ。

    勿論歴史的にみたらニューヨークはジャズの本場かもしれないが、今や何処に行って も良いジャズは聴ける。ニューヨークにだけジャズがあるのではない。日本にだって いっぱい生きている音楽はある。 是非近くのクラブに足を向けてほしい。

    | エッセイ by 藤井郷子 | 14:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    『*****』
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       by 藤井郷子

      2月下旬から3月上旬にかけて、友人の結婚式と東京数ヵ所での演奏をかねて帰国し た。日本杉の花粉症である事をすっかり忘れて、そのシーズンに、しかも例年より花 粉の量が3倍という東京に行ってしまったから、くしゃみ、鼻水の悲惨な状態でスケ ジュールをこなさなくてはならなかった。ちなみにアメリカに戻って2、3日の内に 、すっかり良くなってしまった。

      今回は、CS5という日本初のJazz専門局で、悠雅彦氏のTalk up Jaz zという番組の収録も行った。これは、FM東京でやっているPCMデジタル放送。田村 と私、ふたりでゲストとして2時間、私達のCD、影響を受けたミュージシャンのCDを かけたり、おしゃべりをしたりという内容だ。もともと人間が3人以上いると、口数 が極端に減る田村は、ディレクターもふくめて4人もいるスタジオでほとんどしゃべ らない。それとも私がしゃべり続けているから、口がはさめないのか?! 悠氏、大吉ディレクターのお人柄もあり、大変楽しい収録だったが、実は「事件」が 起きた。私がナント『*****』と、放送禁止用語を言ってしまったのだ。特殊な デジタル放送なので、テープをカットする事はできずに、ホストの悠氏がおわびの言 葉を入れる形となった。ごめんなさい、私は『*****』が放送禁止用語とは、知 りませんでした。

      この番組は4月26日放送となる。CS5を受信するには特別なアダプターが必要だが 、ローカルFM局が、けっこうその番組を、各々違う日時に放送しているらしい。 放送禁止用語というのは、それだけでリストが作成できる程、たくさんあるそうだ。 言葉を使って話すという事には、日常何ひとつ神経を使わず、無責任な発言ばかりし ていた事に今さらながら、気付かされ、驚いた。気にしはじめると、話す事が怖くな る。何しろ、いつもいい加減な事ばかり、しゃべっているので。私は今日1日、一体 いくつの放送禁止用語を使ったのだろう、、、?!『****』『***』『**』 、、、

      | エッセイ by 藤井郷子 | 14:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      パークスロープ
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         by 藤井郷子

        ニューヨーク、ブルックリンのパークスロープという地域に住んでいる。
        ここに越してきたのは、1996年1月、ボストンの隣、ブルックラインから来た。
        Brookline, Brooklynと、町の名前が似ているせいか、今だに旧住所に手紙を出してしまう人がいる。

        ニューヨーク市は、マンハッタン、ブルックリン、クィーンズ、ブロンクス、スタテ ンアイランドからなる。日本では、ニューヨークは治安が良くないというイメージが 強いが、アメリカの大都市の中には、もっと治安が悪い所がたくさんあって、ニュー ヨークはワースト5にも入らないそうだ。でも、ニューヨーク市だけで毎日起きる事 件で、充分日本全国の1日のそれを上回る。はじめてニューヨークに来たのは、19 84年12月だった。その頃に比べると、街ははるかにきれいになったし、治安はず っと良くなっている。
        私が住んでいるパークスロープは、プロスペクトパークというニューヨークではセン トラルパークに次いで大きな公園がある。その公園に向かって、町はなだらかな登り 坂となっている。パークスロープという名前はそこからついたのだろう。以前住んで いたブルックラインは大変安全な所だったので、越してきた頃はやはり緊張した。ニ ューヨークの中でもあまり治安が良くないとされるブルックリンにあって、パークス ロープは比較的安全な地域といわれている。

        このあたりは、昔ヨーロッパから移住し た豊かな家族が住んでいた「ブラウンストーン」とよばれる地下1階地上3階程の建 物がたくさんある。昔は1家族が使用人と住んでいた建物が、今は数所帯がすむアパ ートとなっている。セサミストリートに出てくる、茶色っぽい建物で、玄関に歩道か ら10段ほどの階段のついているあれだ。
        どうしてこのあたりに住んだかというと、マンハッタンよりのんびりしていて、公園 が近く、マンハッタンのダウンタウンにすぐ出られて、地下鉄の駅にも近く、ブルッ クリンにあってもわりと安全で、、、と、色々理由はあるのだが、一番の理由はミュ ージシャンが多いからだ。住民は楽器の練習に理解があるし、別にいつも一緒にいる 訳ではないが、近所に友人のミュージシャンがたくさん住んでいるのは、なんとなく 心強い。住んで1年以上経ち、この町にもすっかり慣れてきたが、今だに慣れない事 がある。安全といわれるパークスロープの、7th アベニューという一番人通りの多 い商店街にある郵便局の窓口だ。局員に小包を渡す窓口が、二重の防弾ガラス扉でで きているのだ。局員側のガラス戸を閉めないと、こちら側のガラス戸が開かない構造 になっていて、小包を置いたら、こちら側のガラス戸を閉める。それでようやく局員 側のガラス戸が開けられて、小包が局員の手に渡る事になる。局員と利用客の間には 、常にどちら側かのガラス戸が閉まっているのだ。はじめて見た時は、とてもショッ クだった。つまり、比較的安全といわれるこの付近でも「そういう事が起きるだろう 」という事だ。ある時、窓口に並ぶ列の中の6才位の女の子が、母親に、どうしてガ ラス戸があるのかと聞いていた。母親は「銃をうつ人がいるからよ」と、答えていた 。なぜかとても悲しい気持ちになった。

        | エッセイ by 藤井郷子 | 14:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        『私のアメリカ その1』
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           by 藤井郷子

           今年の夏でアメリカに合計7年住んでいる事になる。途中、日本に2ヶ月、3ヶ月 と帰国したのを除けば正味6年半程だ。その内訳はボストンに1984年12月から 87年11月、93年9月から96年2月の計5年5ヶ月、ニューヨークに1996 年2月から現在までの1年3ヶ月。わずかボストンとニューヨークに住んだだけでア メリカを語るのは無茶な話しと承知の上で、私の体験した、感じたアメリカを書こう と思う。

           初めて渡米したのは、1984年12月24日のクリスマスイブ。東京からニュー ヨークまで15時間のダイレクトフライト。飛行機に乗ったのも、海外に出たのも、 その時が初めてだった。英会話教室には出発前2、3ヶ月通った。英語は学生時代一 番不得手できらいな教科だったが、アメリカに行ってしまえば何とかなると楽観して いた。
          ニューヨークJFK空港には、父の知人が迎えに来てくれて、マンハッタン5番 街のクイックツァーをしてくれた上、プラザホテルのオイスターバーでディナーまで ご馳走になった。若い女性という事で、彼は5番街のブランド街の説明をしてくれた が、私にはその手の知識、興味がまるでない上、長時間のフライト、時差ボケで、随 分的はずれの受け答えをしていたように思い出される。ディナーはとにかくその量の 多さに驚いた。私の注文したブイヤベースは鍋で出てきたほどだ。翌日ラガーディア 空港からボストンに発つ為、その晩はラガーディアの近くのホテルに泊まった。

          ここからが、なにもかも四苦八苦、うまくいかない連続だ。
          何とかホテルのチェックイン を済ませ、部屋には入れたが、どうやって電話をかけるのかもわからない始末だ。電 話のかけ方の説明書はあるのだが、日本やボストンが、ニューヨークからかけるのに 、ロングディスタンスかローカルかオーバーシーズかわからない。日本がオーバーシ ーズというのはわかってもどうダイヤルしたらいいのかわからない。今考えてみると 、電話のかけ方も調べずに来たのだから、随分と無鉄砲な話しだが、それだから来る 事ができたのかもしれない。結局あれこれ試してもだめで、フロントまでききにいき 、かけ方を紙に書いてもらい、ようやく日本の家族とボストンの知人の知人に話しを することができた。この段階でかなりめげた。電話をかけるなんていう日本では何で もない事ができないのだから。これは、かなりヤバイかもしれないと遅ればせながら 感じたが、もうアメリカだ。その日はスーツケースから友人のお母さん手作りの梅干 しを出して食べ、ようやくホッとしてからベッドに入った。

           翌日、ホテルからのエアポートシャトルバスに乗り、飛行場に向かう。ニューヨー ク、ボストン間はわずか1時間のフライト、しかもその頃はシャトル便が1時間に1 本位運行していた。ホテルから飛行場までは10分とかからない距離なのに、ホテル を朝出てからボストンのローガンエアポートに到着するまでになんと5時間近く費や した。私が使ったエアラインは、イースタン。でもシャトル便はイースタンエアシャ トルという名前でターミナルビルが違っていたのだ。エアーチケットを見せ、インフ ォメーションカウンター等でゲートを尋ねるのだが、説明してくれる事がほとんど聞 き取れない。とにかく、差し示した方向にしばらく歩き、そこでまた尋ねる。結局、 再びバスに乗り込み、違うターミナルビルにあるエアーシャトル乗り場に行き着くま で、たっぷり3時間以上かかった。
          さて今度は飛行機に乗る前に、知人の知人にボス トンローガンエアポートまで出迎えを頼む為に電話をかけなくてはならない。電話は 前日ホテルで予行練習済みだが、今回はコインをいれる公衆電話だ。ダイヤルしてみ るとテープでなにやらお金の額を言っている。つまりその額だけコインをいれないと つながらないのだが、それがまた聞き取れない。聞き取る為に何回もダイヤルした挙 句に、今度は売店でお金を崩すという大仕事だ。何とか文法上正しくしゃべろうとす るし、相手の言っている事がわからなくても、何回も聞き返すのが悪い様な気がして 、わかったふりをして曖昧、意味不明の笑いをする。結果、何もわからないのだ。

          日本人は英語が不得手とよく言うが、そうではなくて、自己主張する事になれていない のだと思う。英語の知識が大半の日本人よりもなさそうな他国の人々がアメリカで相 手を納得させる為に、声高に、英語とはとても思えない発音で、引き下がらずに主張 している姿を始終見かける。日本人はそういう意味では、極力他文化との摩擦からの がれられる所にいる、温室育ちのお坊ちゃん、お嬢ちゃんというところかもしれない 。相手に通じなくて聞き返されたり、相手の言っている事がわからずに、もう1度尋 ねた時に大声でツッケンドンに同じ事を繰り返されたり(耳が聞こえなくて分からな い訳ではないのに)する度に、英語力のない自分が惨めで、恥ずかしいと思ったり、 相手に申し訳ないと思ってしまうのは日本人位なのではないだろうか?!そんな事を 何とも思わなくなるまでに私は3年位かかった。私のカルチャーショックはかなり重 症だった。

          | エッセイ by 藤井郷子 | 14:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          『私のアメリカ その2』
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            by 藤井郷子

            人は、異質の文化や価値観に接すると、極端にそれを否定したり肯定したりして、客 観的に判断をする事ができなくなる。それをカルチャーショックと呼ぶらしい。専門 家によれば、カルチャーショックは一種の防衛本能で、正常で健康的な反応という事 だ。問題は、その極端で客観性を欠いた判断を、当の本人は、冷静で客観的な判断と かたくなに主張する所だ。

            私はアメリカに住み始めて、最初の1年半の間、アメリカが大嫌いだった。ところが その後1年程、極端にアメリカが好きになり、日本が大嫌いになった。どちらもカル チャーショックだ。それで今はといえば、両方とも好きな所と嫌いな所がある。 アメリカに住んで一番良かったと思うのは、外から日本を見れる様になった事だ。日 本に住んでいては、気がつかなかった、日本では何の疑問も覚えなかった事が、はっ きりと見えてくる。もし海外に住む機会があるなら、私は海外での生活を体験する事 を薦める。異質な文化の中で生活する事、日本を客観的に外からみる事は、日本にい てはなかなかできる事ではないから。

            数あるアメリカの好きな部分で、私が特に好きな所はアメリカには多種多様な価値観 、文化があるという所だ。世界中からの移民でつくられた、他民族国家のアメリカに は、多くの異文化が混在している。もちろんアメリカをアメリカたらしめている共通 する価値観はあるが。音楽でも色々な種類の音楽をやっている人がいて、それぞれの リスナーもいる。もちろん、ブームやメインストリームというのはあるが、少数派も しっかりと認められて存在する。多種の文化が混在するという事は、それだけ新しい 物が生まれるエネルギーがあるという事だ。ジャズという、多種の音楽の要素を取り 入れてできた音楽も、この土壌があったからこそ出てきたと思う。音楽家の私にはこ の環境は何よりもありがたい。

            もうひとつアメリカの好きな所を上げるとすると、それはその肯定的な物の見方だ。 アメリカには日本でいう所の『謙譲の美徳』はないとよくいわれるが、形を変えてそ の発想はある。日本では自分自身を低くおく事により、相対的に相手を高く置くが、 アメリカでは相手をひたすら持ち上げる。直接、本人の前でほめちぎりまくるのを見 ていると、時々あまりにみえすいているので、シラッとはするが、もちろんほめられ て悪い気がする訳はない。教育でも同様に良い所を見つけてほめる。日本では、良く できて当然、できていない所を探して注意される。『そんな事をすると、他の人に笑 われる』と子供の頃からいわれる。私は日本にいる時、いつも失敗するのを恐れてい た。うまくいかない所ばかりを見られていると思うと、ノビノビとはできない。その 点、アメリカでは気が楽だ。

            では、日本の好きな所はというと、日本人の責任感の強さ。自分が関わっている仕事 等を全力できちんとやる。結果、日本では大変生活がスムースにいく。アメリカでは 、例えば、家具ひとつ買っても、問題なく手元に届けられる事の方が少ないくらいだ 。店、配達業者、と分業が進んでいる上、店の中でも担当が違えば話しが通じない。 閉店時間がくれば、ほとんどの店員は帰宅の事しか考えていない様だ。

            色々と勝手な事を書いたが、私は日本もアメリカも大好きだ。両方とも体験できたか ら、各々の良い所もよくわかる。ところが、その反面アメリカにいると日本がなつか しく、日本にいるとアメリカがなつかしく、いつもなんとなく満たされないというの も事実だ。それでも、日本を新しく発見できたり、アメリカを知る事ができたり、生 まれ育った国以外での生活はとても価値があると思う。

            | エッセイ by 藤井郷子 | 14:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            逆カルチャーショック
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               by 藤井郷子

              日本に生活の拠点を移し活動する為に、8月中旬帰国した。
              1993年に渡米してからも、年2回程のペースで演奏する為帰国はしていた ので、日本の近況はそれなりに理解しているつもりでいた。それでも、どうし てどうして毎日フレッシュな驚きの連続だ。

              ニューヨークから成田まで直行便で着き、1番最初に驚くのは、いつもの事な がらその湿度の違いだ。何回往復しても、いきなり風呂場に着いたのではない かと感じる様な多湿ぶりに慣れる事はできない。湿度の様な気候風土は、音楽 等あらゆる文化に大きな影響を与える。東京の多湿な気候は、ピアノの様な洋 楽器を鳴らすのに最適とは言えないし、湿度のせいで輪郭がぼんやりと見える 為、日本画や水墨画の様な微妙な色あいの絵画が生まれたのだろう。実際、空 や景色、建物や人物等、ニューヨークではくっきり見えていた物が東京ではか すんで見える。ニューヨークで1ヶ月前まではいていた、真っ白だと思ってい た外出用のコットンパンツが、東京では黄ばんで見えてみすぼらしい。

              連日、引っ越しや、役所の手続きに追われる中も、驚く事は山程ある。日本の セールスマンや小売店の店員は、心配になるほど低姿勢でていねいだ。あまり の低姿勢ぶりに、この人ストレスたまって病気になるか、お酒を飲んで暴れる のではないかと思う程だ。アメリカでは堂々としている事が、どんな立場の人 でも大切と思われているせいか、売る立場の人でもそこまで低姿勢にはならな い。ガソリンスタンドでは店員がどこでも皆走ってサービスをする。これも驚 きだ。アメリカのガソリンスタンドで店員が走っているのを見た事はただの一 度もない。他の人にサービスしている時に話しかけでもしたら、人を待つ余裕 もないのかと逆になじられる位だ。時々、チェーンのファミリーレストラン等 でマニュアル通りの心のないサービスを受けるが、それ以外は日本の気のきい た、こまやかなサービスは、久々に接すると感動すらする。

              他にも新鮮な事はたくさんあるが、この一ヵ月でのベストワンは運転免許更新 だ。本来、事務的な手続きのはずの免許更新の講習がまるで人情に訴えかける 浪速節なのだ。講師は50代前半の女性、警察特有のかたーい雰囲気、こわー い感じで、話す事は事故を起こした場合の被害者、加害者の悲劇。説教されて いる様な感じで、思わずとりあえず謝ってしまいたくなる。アメリカで結婚し 生活している友人が、帰国した際に期限切れした免許を更新する為、講習を受 けた時の話しを思い出した。彼女はウッカリして忘れて期限切れしたわけでは ないし、その時入院をしていたが為に期限切れ更新をした人もいたらしい。免 許センターでの講師は、各々の理由も考慮せずに『あなた達の様な人がいるか ら、事故がなくならないんだ』と高圧的になじったらしい。もしそんな事をア メリカで言ったら、皆だまっているとは思えない。日本人は我慢強い。

              4年前に比べると、物価も安くなり住みやすくなっている日本。私の逆カル チャーショックは、もうしばらく続きそうだ。

              | エッセイ by 藤井郷子 | 14:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              逆カルチャーショックその2
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                by藤井郷子

                日本は安全だ。最近めっきり治安が悪くなったとよく耳にするが、ここ10年す っかり治安の良くなったニューヨークと比べてもはるかに安全だ。治安が良いという 事は、日本が誇れる事のひとつだと思う。こんなに平和で安全な日本で、それでも時 々不安になる事がある。

                JRの在来線に乗っていた時の事だ。夜8時頃、その日は 日曜日だったせいか、1車輛に30人程しか乗客はいなかった。小さな駅で、ドアが 閉まりかけた時に飛び乗ってきた若い女性がいた。ドアに挟まれた女性は、自力でそ のドアを押し開けようとした。普段ならすぐ開くはずのドアが、その時に限って全く 開かない。そのまま発車したら、大変な事になる。ドアの比較的近くに座っていた私 は、ドアを開けるのを手伝った。私の他にもうひとり若い男性が反対側のドアを開こ うと手を貸した。それでもドアは微動だにしない。なんと、同じ車輛にいてその様子 を見ている他の人々は、何もしようとしないのだ。しばらくして、ドアは開いた。で も、表情ひとつ変えずに様子をただ見ていた人々に私は本当に怖くなった。関わりあ いになりたくなかったのか、あるいは皆と同じ事をして自分だけ目立たない様にとい う徹底した日本の教育の成果なのか、、、?もし、その女性がドアに挟まれたままで 電車が動いていたらどうなった事だろう。それでも無理して乗車したその女性と、安 全確認を怠ったJRの職員が全て悪く、何もせずに見ていた乗客には責任がないのだろ うか?

                テレビ、新聞等の情報が多いのは便利で良い事なのだろうが、それに惑わ される人が多い事にも不安になる。子供にピアノを習わせたいというお母さんと、話 しをする事がある。小学校1年生の子供にピアノを習わせるのに、今からではもう遅 いので専門家にはできないとおっしゃる。何を根拠にそんな風に考えるのか伺ってみ ると、テレビで著名なピアニストがそう言っていたという。話しの前後関係がわから ないので、そのピアニストがどういう意味でそう言ったのかは私にはわからない。で も、それでは小学校入学前の子供の将来をもう決めなくてはいけないという事なのか ?中には、親族に音楽家がいなければ、専門家になるのは無理という人もいるらしい 。お母さん達は素人で、そういった『プロ』のテレビ、新聞での発言は絶対かもしれ ない。でもちょっと待って!常識ある人ならそんな事はナンセンスであるとちょっと 考えればわかるはずだ。もう専門家には無理というお母さんの発言は確実に子供の将 来を狭めている。

                視聴率の高い、あるテレビ番組でココアが体に良いと言ったた めにココアが全国の食料品店で売り切れ、ココアのメーカーが『24時間体制で製造 しているので、しばらくお待ち下さい。』というお詫びの広告が新聞に載ったらしい 。もちろん、ココアが体に良いというのはデタラメではないだろう。元気に過ごした いという健康願望は誰でも持っているし、それが簡単に得られれば、こんな良い事は ないだろう。でも私が怖いと感じるのは、それをテレビで放送した次の日にココアが 売り切れるという現象だ。単一民族である程度同種の価値観を国民が共有する日本だ からこその出来事に違いないが、もしそれがココアではなく、思想的な事だったらと 考えるととても怖くなる。

                もうしばらくしたら、そんな事何も怖く感じなくなる かもしれない。だから私もココアを買いにいく様になる前に、書いておこうと思った 。

                 
                | エッセイ by 藤井郷子 | 14:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                New York おいしいレストラン
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                  by藤井郷子

                  1、Peter Luger
                  178 Broadway, Brooklyn(Williamsberg Bridgeのすぐそば)Tel (718)387-7400
                  とにかくおいしいTボーンステーキレストラン。Brooklynのあまり治安の良くない所 にある。最初食べた時は、肉というよりあっさりとしていてもしっかりとした味の魚 の味に近い様に思えた。1週間位先まで、予約でいっぱいなので、早目に予約をいれ る方が無難。

                  2、Cafe Espanol
                  63 Carmine St.(7th Ave.との角)Tel (212)675-3312
                  スペイン料理とメキシコ料理の店。パエリャや魚貝類のレッドソースがおいしい。日 によって味にバラつきがあるのが難点。かなりのボリュームなので、3人でメインデ ィッシュを2人前とアペタイザーを1人前で充分。シェアする時はお皿代として別途 請求される。

                  3、Cuisine de Saigon
                  154 W. 13th St.(bet 6th and 7th Ave.) Tel(212)255-6003
                  あっさり、さっぱりで、絶妙な味のベトナム料理屋。アペタイザーにある蒸しギョウ ザは絶品。私が食べた限りでは、何を食べてもハズレなしのレストラン。

                  4、Patsy's Pizza
                  19 Fulton St. Brooklyn(Brooklyn Bridgeのすぐそば)Tel (718)858-4300
                  Pizzaがこんなにおいしい物と再認識させられるレストラン。White Pizzaとあるのは 、トマトソースを使っていないチーズとガーリックを使った物。良質の材料で手を抜 かずに作ったその味は、1度食べたら何度も行きたくなる程。フランク・シナトラが 元気な頃はニューヨークにくると、必ずここに立ちよったという話し。レストランか ら外に出ると、マンハッタンのダウンタウンの夜景が素晴しい。店の前に列ができる 程だが、予約はとらない。日曜日の夜はわりとすいている。

                  5、Thirty One Division Dim Sum House
                  31 Division St.(BoweryとMarket St.の間)Tel(212)431-9063
                  チャイナタウンにある飲茶が有名な店だが、ディナーもおいしい。夜行くとガラガラ にすいていて不安になるが、ここのカニのネギとショウガ炒めが安い上、おいしい。 この料理Crab with Ginger and Scallionは、田村がワタリガニというコラムでも紹 介している。席につく前に、「今日カニはある?」ときいてなければ、次回のある時 にした方が賢明。

                  6、Claire
                  156 Seventh Ave.(19th St.と20th St.の間) Tel(212)255-1955
                  シーフードのおいしい、ゲイの街チェルシーにあるレストラン。従業員、客ともにゲ イが大半を占める、実にニューヨークらしい店。そのせいか、味もサービスも繊細。 料理もニューヨークらしい無国籍で独創的な創作料理をだす。

                  7、Second Avenue Deli
                  156 Second Ave.(10th St) Tel (212)677-0606
                  パストラミとコールスローのおいしいコッシャーデリの店。ニューヨークでは有名な デリの内の1軒。せっかく、ジューイッシュ(ユダヤ人)の多いニューヨーク。コッ シャーデリとBagelは存分に楽しみたい。

                  8、江西(カンサ)
                  32th St. のBroadwayから東に入った道の南側にある店。
                  ニギリカルビ(カルビのブツ切り)、パジョン(韓国お好み焼)、チャプチェ(春雨 の焼そば)がおいしい、コリアンバーベキューの店。この辺りはコリアン街でたくさ んのコリアンレストランがあるが、ここのニギリカルビは一際おいしい。

                  9、Haveli
                  100 Second Ave.(5th St.と6th St.の間)Tel(212)982-0533
                  Second Ave.のこの辺りはいわゆるエスニックレストランがたくさんある。Haveliは 中にはいると、店内はメニューもよく見えない程暗く不安になるが、味は申し分のな いインディアンレストラン。

                  10、Pllegrino's
                  138 Mulberry St.(Canal St.から北に入った東側)
                  リトルイタリーにあるシーフードもパスタもおいしい店。店内のインテリアはかなり 趣味が悪いので、暖かくなって、外にテーブルがある時が無難。量も味もボリューム たっぷり、思わず食べすぎて具合が悪くなるのに注意。

                  この他にも、グランドセントラル駅の地下にある有名なオイスターバー、ヴィレッジ にあるカフェ、ラ フィガロのピーカンパイ等忘れられない。
                  ニューヨークは、世界のおいしい物が集まっている所でもある。
                  ただし、世界のマズイ物も山ほどあるので、要注意。


                   
                  | エッセイ by 藤井郷子 | 14:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  音楽
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                    by藤井郷子

                    音楽について書いてみよう。

                    私の音楽を聴いた事のない方から、どんな音楽を演奏しているのか尋ねられる事がよくある。答えるのが難しい。「ジャズです。」と一言で答えると、後日音楽を聴いた後で怒られる事がけっこう多いのだ。
                    単語の定義というのは難しい。ましてやそれが音楽の様な形の見えない物となるとなおさらだ。70代の人々の多くにとって、ジャズはベニー・グッドマンやグ レン・ミラー等だし、60代の人々の多くにとってはアート・ブレーキーに代表される様なアメリカ黒人音楽、、、と様々だ。ではジャズの定義とはいったい何 なのか?辞書に載っているそれとは別に、私は音楽家としてそれを「即興に重要な意味をもたせる、無国籍でインターナショナルな音楽」と定義づけしている。 本来新しい文化は、多くの場合異文化の接触により生まれる。ジャズはそれが特に顕著で、ひとつのスタイルを確立した後も常に新しい文化を取り込んでいっ た。アフリカや中南米のリズムとヨーロッパの和声が新大陸アメリカで出会ってジャズが誕生して以来、東ヨーロッパ音楽、ユダヤ人音楽、カントリー等世界の 様々な音楽を実に柔軟に取り込んでいった。そしてこれからもそうしていく事ができる音楽だと思う。また、即興つまり行為主体の音楽の為、美術館や博物館に 飾られる作品主体の芸術表現とは根本的にその性質を異にする。という定義のもとに私は私の音楽をジャズと思っている。でも、これはあくまで私の意見で、 ジャズを1950年代、60年代のビバップ、ハードバップと考える人ももちろんたくさんいる。その人達からみれば、私の音楽はジャズではないという事にな るらしい。まあ私としてはやりたい事をやっているので、その音楽をなんとよんで頂いても一向に構わないのだが。雑誌等では、フリージャズというジャンルで 紹介される事が多い。また、ニューヨークで活動していたせいもあり、ダウンタウン派ともよばれる。「とがっている」という形容もよく使われる。実は私には 何がとがっているのかよくわからない。まあ言葉でその音楽を表現できないからこそ音楽で表現するのだが。

                    様々な人々と音楽の話しをするほど、人々の求めているものがマチマチだというのがわかる。それはライブの時、答えて頂いたアンケートを見てもいつも感じる 事だ。コンサートで知っているメロディーを知っている様なアレンジでやってほしいという人もいれば、知っている形をそのまま聴くとがっかりする人もいる。 思い描いている音楽が目の前でその通りに再現される事を期待し、またそれが実際に起こる事に安堵し、満足する人もいれば、思い描けない様な新しい音楽との 出会いを期待し、求めている人もいる。特定の音楽がその人の人生の思い出と結びついていて、その音楽を再び聴く事で大切な思い出を鮮明に呼び起こしたくて 音楽を聴く人もいる。音楽に安らぎを求める人もいれば、刺激を求める人もいる。という事は、残念ながら全ての人の要望に答える事ができない。まあ、それが 音楽の面白いところでもあるのだが。結果、私は私自身が求めている音楽をめざすという事になる。

                    自身で興味を常に惹きつけられる様な音を選んで、創作していく。作曲するにしても、即興するにしても、いつも面白いと感じるのは私にとっての答えはひとつ しかないという事だ。最初の音を鳴らす。次にくる音は正解としてひとつだけ存在する。もちろん、これは万人にとっての正解ではなく、私にとっての正解だ。 ただその正解は曖昧な物ではなく、常に明白だ。私は私の中にあるその答えを鳴らす事によって音楽を作る。それがたとえ私だけの正解だとしても、あまりに正 解として明白に存在するので私はこれを自然の摂理、科学の様に感じる。それが他の人に間違いといわれてもなすすべがない。そういう時は「ごめんなさい。」 というしかない。私の言っている事はかなり傲慢で独りよがりにきこえるかもしれない。ただし、即興がその音楽の中で大きな意味を持つという事は、私自身の 信じるところの正解が常にその場にいる聴衆のひとりひとりから影響を受けるという事だ。聴きてが感じる事は驚く程、演奏者に伝わる。それは時として演奏者 のコントロールを超えてしまう程に音楽を変えていく。聴衆が創作の場に立ち会うという意味において、即興音楽は譜面に書き表されたどんな音楽よりも聴衆を 反映している。

                    と、まあ色々書いてみたが、書いてみる程、私の音楽について私自身で語ることはできない。
                    是非とも、聴きにきてその音楽をその場で感じてほしい。
                     
                    | エッセイ by 藤井郷子 | 13:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    「出会い」に思う---宅孝二氏、板橋文夫氏、ポール・ブレイ氏
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                      by藤井郷子

                      幼稚園を数週間で中退した。なじめなかったらしい。今では信じてもらえないが、と ても内気でおとなしい子供だった。出かけて行って友人を作り、一緒に遊ぶなんて事 は、とてもじゃないが怖くてできなかった。極端に内向的な事を心配した親は、私を ピアノ教室に連れて行った。その当時は女の子にピアノを習わせるというのが、はや っていた。その時のピアノの先生が、私の最初の音楽での先生だった。以降、多くの 先生に出会ってきた。楽器の演奏法を修得するという内容なので、個人レッスンとい う形だ。一対一でつきあうという事は、単にピアノの技術だけでなく、その先生の音 楽性、人間性、そして人生哲学をも学ぶ事になる。その出会いと影響なくして、今の 私はなかったと思う。特に高校時代にクラシックピアノを師事した宅孝二氏、ジャズ ピアノの最初の先生にあたる板橋文夫氏、 そしてニューイングランド音楽院で師事した ポール・ブレイ氏には大きな影響を受けた。

                      宅孝二氏には、高校生の時音大進学の為に習いはじめた。結果的には氏の影響で、私 は音大どころかクラシックからジャズに転向した。フランスでアルフレッド・コルト ーやナディア・ブーランジェに学び、帰国後は作曲家、ピアニスト、教育者として活 躍した氏は、ガーシュインを日本で初演したり、サティーを紹介したりで常に新しい ものに自身をオープンにしていた。ジャズを現場で弾いてみたいといって東京芸大の ピアノ科主任教授をやめ、浦和のキャバレーのピアニストとなった時、氏はすでに6 0歳を越えていた。自由奔放で、世俗的な成功や名声に惑わされる事のない、潔い程 のその生き方を私は何よりもカッコイイと思った。まわりの大人たちは、人生の安全 ばかりに気を使っているようにみえた。コルトレーンのポスターが宅氏の部屋にあり 、そのモノクロのポスターは、その当時の私にとって納得のいかないまわりの大人た ちの圧力へのレジスタンスの様にすら写った。宅氏の影響で私はジャズにのめり込ん でいった。ピアノを習いはじめた頃は自由に即興していたのに、譜面なしでは一音も 演奏できなくなった自分に気付いて愕然としたのもその頃だった。受験の課題曲を何 か月もかけて準備していたのに、入試間近にはすっかり気が変わってしまった。もち ろん、そんな事はまわりの大人達に理解してもらえるはずはない。現実逃避としか受 け取ってはもらえない。音大進学をやめた事を喜んでくれた唯一の大人は宅氏だった 。同時期、レッスンに通っていた南博さんも今ではジャズピアニストとして、また氏 とバンドを組んでいたテナーサックスの川下さんもジャズ界で活躍している。宅氏の お嬢さんである、シューミーは私の大好きなピアニスト、ヴォーカリストだ。

                      ジャズというより、即興という芸術形態に興味をもった私は一時期、楽器演奏そのも のにも疑問をもった。物心ついた時にはすでにピアノを弾いていた。つまり、ピアノ は私が自分の意志で選んだ楽器ではない。それに加えて、ピアノの前にすわると訓練 された事しかできない。ピアノという楽器は私を自由にするのではなく、束縛するた めの道具に思えた。声を使ったり、手をたたいたりという形で私は自分の音楽を模索 しはじめた。雑誌のメンバー募集コーナーでよびかけ、集まった人達は皆、同様の事 を考えていた。不定期に集まり、公園や劇団の稽古場などでセッションをかさねた。 声を使う事は予想以上に私自身を解放してくれた。ただ、このセッションから私は自 分のやりたい音楽をみつける事や感じる事はできなかった。そんな時、ピアノを自分 の声として鳴らしているピアニスト、板橋文夫氏の演奏に出会った。整った形を演奏 するのでなく、切々と訴えるそのピアノは、もう一度私をピアノという楽器に引き戻 した。板橋氏の演奏をライブハウスに頻繁に聴きにいくようになり、ますます氏の様 なピアノを弾きたいと思いはじめた。新宿のタローというライブハウスで、演奏後の 板橋氏に教えてほしいと願い出た。快く承諾して頂き、レッスンに通う事となった。 氏の人柄はまさに氏の演奏のようだ。切々とかたりかけるピアノは、氏の音楽に対す る思いに他ならない。即興理論やヴォイシング、ピアノテクニックも習ったが、私が 板橋氏から学んだのは、音楽に対する情熱と自らを投げ出す様なまっすぐな表現だ。 ピアノを西洋の楽器、ジャズを異国の音楽というのを氏の演奏からは感じられない。 留学中、つらい時には氏のテープを何度も聴いた。いつも元気づけられる思いだった 。今でも私は板橋氏の演奏、音楽が大好きだ。

                      ボストンにあるバークリー音楽院に留学し、帰国後日本で活動をはじめた。自分でま だまだ何をしたいのかわかっていなかった。ただ、ジャズピアニストという響にあこ がれていただけかもしれない。帰国後の活動は順調とは言えなかった。何しろ自分で どうしたら良いかわからないのだから。それでも演奏したり、教えたりで数年がすぎ た。世間はバブルで仕事には恵まれていたが、このままでは何もみつからないという 気持ちは募っていった。ある縁で当時ニューイングランド音楽院の講師をしていた益 子高明氏に、ニューイングランド音楽院の話を伺う事ができた。直感でバークリー音 楽院とは180度違うニューイングランド音楽院には、答えがあるような気がした。 ニューイングランド音楽院でポール・ブレイ氏が教鞭をとっているというのは入学す るまで知らなかった。ポール・ブレイ氏は私にとってはあこがれのピアニストだった 。その知的な澄んだタッチ、常に自由で深淵で新鮮な表現。氏のレッスンを受けたい がために別科のサードストリーム科をやめて、本科大学院のジャズ科に入学しなおし た。ポール・ブレイ氏からの影響はあまりに大きすぎて何から書いたらよいかわから ない。そのレッスンのほとんどはピアノを弾く事ではなく、会話で進められる。毎回 、私は自分の中で音楽に対して、人生に対して、そして何よりも自分自身に対しての 意識が大きく変わっていくのを自覚した。まさに革命だった。何年もかけて毎日何時 間も練習した所で、得られるとは確約されない自分自身にたいする肯定が、数回のレ ッスンで私の中に築かれていった。自己を正当に肯定するという事は実際にはそんな に簡単な事ではない。ましてや、不器用で何をやるにも時間がかかり、まわりの友人 達にいつもとり残されていた私にとっては。ニューイングランド音楽院に行く前は、 ある意味で人生の敗北すら感じていた。ポール・ブレイ氏のすすめで、私は頻繁にレ コーディングをはじめた。レッスンではそのテープを一緒に聴く。不思議なもので、 私は私の音楽をそれまで何も聴いていなかったような気がした。そのくらい自分自身 の音楽に発見があるのだ。ポール・ブレイ氏のレッスンだけではなく、ニューイング ランド音楽院での生活は予想をはるかに上回る程、素晴らしいものだった。氏の提案 でピアノ2台でのレコーディングを行い、1996年にCD"SOMETHING ABOUT WATER" としてリリースした。スタジオでのピアノ2台のセッションでも、言い表せない程た くさんの事を学んだ。まず、その「間」の取り方、音色、構築、そして自由な発想と 表現。ポール・ブレイ氏は今年(1999年)5月に23年ぶりの来日をする。50 年代から常にジャズの最先端を走り続けている氏は、今でも最先端だ。昨年、ニュー ヨークで聴いた氏の演奏は最先端、リスクすら感じられるような音楽なのに、その成 熟した表現は普遍性を感じさせるものだった。

                      宅孝二氏、板橋文夫氏、ポール・ブレイ氏に出会えた事には、本当に感謝している。 触発されて自分の中に認識できるものがみえる時、人との出会いは自分自身との出会 いともなる。 これから、まだまだたくさんの人々と出会える事を願っている。最近 は、出会う事そのものが人生の使命のような気がしている。
                      | エッセイ by 藤井郷子 | 13:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |