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「出会い」に思う---宅孝二氏、板橋文夫氏、ポール・ブレイ氏
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    by藤井郷子

    幼稚園を数週間で中退した。なじめなかったらしい。今では信じてもらえないが、と ても内気でおとなしい子供だった。出かけて行って友人を作り、一緒に遊ぶなんて事 は、とてもじゃないが怖くてできなかった。極端に内向的な事を心配した親は、私を ピアノ教室に連れて行った。その当時は女の子にピアノを習わせるというのが、はや っていた。その時のピアノの先生が、私の最初の音楽での先生だった。以降、多くの 先生に出会ってきた。楽器の演奏法を修得するという内容なので、個人レッスンとい う形だ。一対一でつきあうという事は、単にピアノの技術だけでなく、その先生の音 楽性、人間性、そして人生哲学をも学ぶ事になる。その出会いと影響なくして、今の 私はなかったと思う。特に高校時代にクラシックピアノを師事した宅孝二氏、ジャズ ピアノの最初の先生にあたる板橋文夫氏、 そしてニューイングランド音楽院で師事した ポール・ブレイ氏には大きな影響を受けた。

    宅孝二氏には、高校生の時音大進学の為に習いはじめた。結果的には氏の影響で、私 は音大どころかクラシックからジャズに転向した。フランスでアルフレッド・コルト ーやナディア・ブーランジェに学び、帰国後は作曲家、ピアニスト、教育者として活 躍した氏は、ガーシュインを日本で初演したり、サティーを紹介したりで常に新しい ものに自身をオープンにしていた。ジャズを現場で弾いてみたいといって東京芸大の ピアノ科主任教授をやめ、浦和のキャバレーのピアニストとなった時、氏はすでに6 0歳を越えていた。自由奔放で、世俗的な成功や名声に惑わされる事のない、潔い程 のその生き方を私は何よりもカッコイイと思った。まわりの大人たちは、人生の安全 ばかりに気を使っているようにみえた。コルトレーンのポスターが宅氏の部屋にあり 、そのモノクロのポスターは、その当時の私にとって納得のいかないまわりの大人た ちの圧力へのレジスタンスの様にすら写った。宅氏の影響で私はジャズにのめり込ん でいった。ピアノを習いはじめた頃は自由に即興していたのに、譜面なしでは一音も 演奏できなくなった自分に気付いて愕然としたのもその頃だった。受験の課題曲を何 か月もかけて準備していたのに、入試間近にはすっかり気が変わってしまった。もち ろん、そんな事はまわりの大人達に理解してもらえるはずはない。現実逃避としか受 け取ってはもらえない。音大進学をやめた事を喜んでくれた唯一の大人は宅氏だった 。同時期、レッスンに通っていた南博さんも今ではジャズピアニストとして、また氏 とバンドを組んでいたテナーサックスの川下さんもジャズ界で活躍している。宅氏の お嬢さんである、シューミーは私の大好きなピアニスト、ヴォーカリストだ。

    ジャズというより、即興という芸術形態に興味をもった私は一時期、楽器演奏そのも のにも疑問をもった。物心ついた時にはすでにピアノを弾いていた。つまり、ピアノ は私が自分の意志で選んだ楽器ではない。それに加えて、ピアノの前にすわると訓練 された事しかできない。ピアノという楽器は私を自由にするのではなく、束縛するた めの道具に思えた。声を使ったり、手をたたいたりという形で私は自分の音楽を模索 しはじめた。雑誌のメンバー募集コーナーでよびかけ、集まった人達は皆、同様の事 を考えていた。不定期に集まり、公園や劇団の稽古場などでセッションをかさねた。 声を使う事は予想以上に私自身を解放してくれた。ただ、このセッションから私は自 分のやりたい音楽をみつける事や感じる事はできなかった。そんな時、ピアノを自分 の声として鳴らしているピアニスト、板橋文夫氏の演奏に出会った。整った形を演奏 するのでなく、切々と訴えるそのピアノは、もう一度私をピアノという楽器に引き戻 した。板橋氏の演奏をライブハウスに頻繁に聴きにいくようになり、ますます氏の様 なピアノを弾きたいと思いはじめた。新宿のタローというライブハウスで、演奏後の 板橋氏に教えてほしいと願い出た。快く承諾して頂き、レッスンに通う事となった。 氏の人柄はまさに氏の演奏のようだ。切々とかたりかけるピアノは、氏の音楽に対す る思いに他ならない。即興理論やヴォイシング、ピアノテクニックも習ったが、私が 板橋氏から学んだのは、音楽に対する情熱と自らを投げ出す様なまっすぐな表現だ。 ピアノを西洋の楽器、ジャズを異国の音楽というのを氏の演奏からは感じられない。 留学中、つらい時には氏のテープを何度も聴いた。いつも元気づけられる思いだった 。今でも私は板橋氏の演奏、音楽が大好きだ。

    ボストンにあるバークリー音楽院に留学し、帰国後日本で活動をはじめた。自分でま だまだ何をしたいのかわかっていなかった。ただ、ジャズピアニストという響にあこ がれていただけかもしれない。帰国後の活動は順調とは言えなかった。何しろ自分で どうしたら良いかわからないのだから。それでも演奏したり、教えたりで数年がすぎ た。世間はバブルで仕事には恵まれていたが、このままでは何もみつからないという 気持ちは募っていった。ある縁で当時ニューイングランド音楽院の講師をしていた益 子高明氏に、ニューイングランド音楽院の話を伺う事ができた。直感でバークリー音 楽院とは180度違うニューイングランド音楽院には、答えがあるような気がした。 ニューイングランド音楽院でポール・ブレイ氏が教鞭をとっているというのは入学す るまで知らなかった。ポール・ブレイ氏は私にとってはあこがれのピアニストだった 。その知的な澄んだタッチ、常に自由で深淵で新鮮な表現。氏のレッスンを受けたい がために別科のサードストリーム科をやめて、本科大学院のジャズ科に入学しなおし た。ポール・ブレイ氏からの影響はあまりに大きすぎて何から書いたらよいかわから ない。そのレッスンのほとんどはピアノを弾く事ではなく、会話で進められる。毎回 、私は自分の中で音楽に対して、人生に対して、そして何よりも自分自身に対しての 意識が大きく変わっていくのを自覚した。まさに革命だった。何年もかけて毎日何時 間も練習した所で、得られるとは確約されない自分自身にたいする肯定が、数回のレ ッスンで私の中に築かれていった。自己を正当に肯定するという事は実際にはそんな に簡単な事ではない。ましてや、不器用で何をやるにも時間がかかり、まわりの友人 達にいつもとり残されていた私にとっては。ニューイングランド音楽院に行く前は、 ある意味で人生の敗北すら感じていた。ポール・ブレイ氏のすすめで、私は頻繁にレ コーディングをはじめた。レッスンではそのテープを一緒に聴く。不思議なもので、 私は私の音楽をそれまで何も聴いていなかったような気がした。そのくらい自分自身 の音楽に発見があるのだ。ポール・ブレイ氏のレッスンだけではなく、ニューイング ランド音楽院での生活は予想をはるかに上回る程、素晴らしいものだった。氏の提案 でピアノ2台でのレコーディングを行い、1996年にCD"SOMETHING ABOUT WATER" としてリリースした。スタジオでのピアノ2台のセッションでも、言い表せない程た くさんの事を学んだ。まず、その「間」の取り方、音色、構築、そして自由な発想と 表現。ポール・ブレイ氏は今年(1999年)5月に23年ぶりの来日をする。50 年代から常にジャズの最先端を走り続けている氏は、今でも最先端だ。昨年、ニュー ヨークで聴いた氏の演奏は最先端、リスクすら感じられるような音楽なのに、その成 熟した表現は普遍性を感じさせるものだった。

    宅孝二氏、板橋文夫氏、ポール・ブレイ氏に出会えた事には、本当に感謝している。 触発されて自分の中に認識できるものがみえる時、人との出会いは自分自身との出会 いともなる。 これから、まだまだたくさんの人々と出会える事を願っている。最近 は、出会う事そのものが人生の使命のような気がしている。
    | エッセイ by 藤井郷子 | 13:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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